カラカス1969
1969年カラカス1 ホームへ
1969年2月、21歳の私は勤務していたF工業から南米ベネズエラに3ヶ月の出張を命じられた。
これが私の10年に及ぶ南米生活の始まりである。
10年の間に結婚し、3人の子供を持つ身になり、そして1979年帰国する為にやむなくF工業を退職することになる。
10年の南米生活は私の青年時代に大きく影響し、また得がたい友人や家族をもたらすことになった。
これは、人生の良き一時代を忘れない為につづったものである。
旅立ち カラカスへ カラカス市内
セドゥラ ピントサリーナス カーニバル
ベネズエラ人 外国語学校 マラカイボ
マラクーチョ もう一杯のTさん
旅立ち
旅立ちの3年前故郷の福岡県田川市の工業高校を卒業したが、産炭地であった田川は、すでに1950年代に始まった石炭産業合理化の嵐に見舞われ、地元では就職先は皆無に近かった。
当然卒業生のほとんどは県外に就職せざるを得ず、かく言う私も大阪方面の会社に受験を希望していた。
大阪にあるF工業をF重工の関連会社と勘違いした私は「飛行機を作る会社に就職するのだ」
と周囲に話していたが、F工業が飛行機を造る会社ではなく、エレベータの会社であると判明したのは就職が内定した後の事である。
そして、入社後3年が経った1968年12月、鹿児島の現場でエレベータ工事をしている私に、突然大阪の本社から電話がかかる。
「もしも� �、梅木か? パスポート用に、戸籍謄本をとって本社宛てに送ってくれ。」
「どこに行くのですか。」
「ベネズエラ行きだ。詳しいことは本社に帰ってから説明する。」
ベネズエラでは、数年前から現地駐在員事務所を開設して、活動していることは、社内報で知っていた。
しかし、まさか入社して3年目の私に出張命令が出るとは、予想外であっただけに、天にも昇るような嬉しさで一杯になった。
子供の頃から冒険小説に夢中であった私は、小説を通じて海外にも興味があり、特にブラジルへの日本人移民に強い関心を持っていた。
海外出張命令は、ついに海外に行く夢が実現することであり、夜も眠れないほどの、感激がこみ上げてきたものである� �
さて、新年を田川で過ごし、鹿児島の現場も1月初旬に終わり、大阪本社に戻った私は渡航手続きを開始した。
この当時、1ドル360円の時代は、空前の好景気に向かう直前でもあり、まだまだ海外旅行は夢に近い時代であった。
渡航手続きも今ほど簡単でなく、旅行会社の担当者に連れられて、大阪府警で無犯罪証明の取得、各種予防接種に2回、健康診断とかなり時間がかかった。
外貨や邦貨持ち出しも制限されており、外貨は一人500ドルまでであったと記憶している。
こうして一ヶ月を渡航準備に費やし、また会社から渡航準備金として3万円ほど支給されたので、バッグなどを買い、余った金で思い切ってシルクのシャツを阪急百貨店で買った。
� �発前には、海外渡航がまだ珍しい時代であった為、独身寮で総務部主催の送別会までしてもらった。
ベネズエラに関する資料は、当時書店にいっても無く、旅行ガイドなんかも今ほど無い時代であったため、まったく手に入らない。
わかったことは、言葉がスペイン語であること,そして、先輩から聞いた次の話。
「梅木よ、ベネズエラではなー、川の上に家があるんや。そしてトイレは川の上から落とすと、魚がそれを食べよるんや。そして人間がその魚を取って食べるそうやで」
ほんまかいなーと思い、よほどの後進国に行く覚悟はしておいた。
それまでベネズエラなんて国がある事位は知っていたが、詳しいことは何もわからないままである。
とにかく言葉の勉強をしなければ、仕事にならんと思い、書店で西和、和西辞書とスペイン語4週間と言う本を買い、通勤電車の中で勉強を始めた。
仕事に関する言葉だけでもと思い、数字と色そして日常の挨拶程度を重点的に覚え始める。
自慢じゃないが、私は理数系の能力はあるが、英語、国語の成績は3以下である。
不良でもあった私は高校時代、一番後の窓際の席に陣取り、英語と国語の授業は、出欠の返事をした後で度々窓から抜け出していた。
このような私が語学の勉強をする羽目になるとは--。
BE動詞の人称と時制の変化も知らなかったのである。
ともあれ、なんとか数字と色{当� �信号用電線は色で区別していた}と朝昼夜の挨拶程度は出発までに覚えることが出来た。
後日後悔する事になるのは、スペイン語よりもまずベネズエラに行き着くための、英語のほうが大事だったのである。
カラカスへ 文頭へ戻る
カンザス州のトップ親権弁護士
出発当日の朝、私と、同行する先輩のNさんは会社の車で伊丹空港に到着した。
空港ロビーには担当部長、担当課長他数人の社員が見送りに来ていた。
ほどなく、社長が社長室員数名と現れ、カラカス事務所宛ての土産を渡してくれる。
今では考えられないような、大掛かりな壮行会が当時は当たり前の時代であった。
やがて飛行機は伊丹を出発し、羽田へ到着した。
羽田には東京支店の管理職が数名見送りに来てくれている。
しばしの雑談の後出国ゲートに入った私は、通関職員の手持ち邦貨額の質問に正直に答えたところ、「持ち出し制限から3万円ばかりオーバーしていますね。誰か預ける人がいますか。」
「はい、見送りの人がいますけど。」
「では、もう一度ゲートに戻って預けてきてください。」
仕方なくゲートに戻って見送りの東京支店の社員に預けた。
乗った飛行機はJALのため、日本語OK。出発後すぐに夕食が出る。
巷では見た事も無いような豪華な食事に大喜びであっという間に平らげる。
窓の外は夜の闇、海上を飛んでいる為景色も無い。
初めての海外と言うことで、興奮して眠れるわけも無く、約8時間後に飛行機はサンフランシスコに近づいた。
窓からは金門橋が見える。
橋を見ながら、当時はやっていた歌のメロデイが思わず口から出ていた。
「♪ ♪ サンフランシスコ ♪ ♪」
通関の為、入国ゲートに入って手続きをするがパスポート、航空券を返してくれない。
係官は何か言っているのだが、何も解らず困っていると、後ろの客が「乗り換え便のカウンターで返してくれます」と通訳してくれた。
アメリカは通過客と言うことでビザを取っていなかったためである。
建物の外は夜が明けきっておらず、通行する車もまばらで、ロビー内は当然外国人ばかり。
乗り換え便のパンアメリカンのカウンターでチェックインし515便に乗る。
ロスアンジェルス、グアテマラ、パナマを経由してカラカスに行き、最終到着地はリオデジャネイロだ。
この便からは英語のほかに、スペイン語のアナウンスが流れ出す。
便名であるパナメリカン シンコ ウノ シンコ{515}をスペイン語でよく覚えておく。
サンフランシスコ出発後すぐに豪華な朝食が出る。
となりにはコスタリカ人の母子が座っている、子供は中学生くらいか、すごく美人だ。
しゃべれないので黙っていると、子供が英語で話し掛けてきた。
英語が得意でない母親の通訳をしているのだ。どうやらどこまで行くのか聞いているみたいだ。
さあ 始まったぞ。
不勉強のたたりと思いながら、中学一年生程度のレベルの英語で会話を始める。
「日本からカラカスに行きます。」
「どんな仕事をしていますか?」
「エレベータの仕事です。貴女たちはどこに行きますか?」
「コスタリカのサンホセに行きます。」etc etc、なんとかなっている。
行き先も同方向と言うことで、私とNさんは、この母子の後について回ることとする。
ロスアンジェルス到着後、1時間ほどの待時間の後出発。
すぐに昼食が出る。時差の関係からか、飛び立つ毎にやたら食事が出る。
スチュワーデスの一人に日系の伊丹さんと言う人がいて、我々2名の日本人客のために何度も話し掛けてくれ、手が空いた時は隣の空席に座って雑談してくれる。
やがてグアテマラ到着、外は2月というのに灼熱の空気が襲ってくる。
トランシットロビーで出発待ちの間、聞こえてくるのはスペイン語ばかり。
出発便のアナウンスを聞き逃さないよう、515の数字に聞き耳を立てていると、やがて一緒にいたコスタリカ人の母子が動き出した。
私たちが後ろについて行くと、振り返ってしきりに手を振り「ノーノー」と言っている。
「私たちはサンホセ行きに乗ります。貴方たちはパナマ行きに乗るのです」
危うくコスタリカに行くところだった。
冷や汗をかいていると、シンコウノシンコと聞こえてきたので、見慣れた飛行機に乗り込む。
グアテマラ出発後また食事が出るが、いくら豪華な食事でももう食べられない。
やがてパナマに到着し、伊丹さんはここまでで折り返すらしい。
パナマ出発後また食事がでるが、もう肉はいやだ、和食が欲しいと思いながら、食べずに残す。
やがて夜の闇が窓の外を被っていき、深夜カラカスの近郊にあるマイケテイア空港に到着。
空港にはカラカス駐在員事務所の日本人メンバーが全員で迎えに来てくれていた。
カラカス市内 文頭へ戻る
マイケテイア空港を出てカラカス市内へ向け出発する。
マイケテイアは海沿いにあるが、カラカスは海抜1000mの高地にある。
カラカスに限らず、中南米のスペイン人が作った都市はほぼ全て海抜1000m以上の高地にある。
一説によると低地の暑さと、毒蛇などの害虫から逃れる為だと言う。
道路はカラカスまで高速道路があり、快適なドライブである。
山間の道を抜けカラカスに近づくと、山の手のほうに密集した明かりが見えてきた。
山の手の高級住宅地かと思うと、あれはランチョと呼ばれる貧しい人たちの住宅地だと言う。
やがて市内に入ると道路を挟んで1-3階建ての住宅や商店が過ぎてゆく。
中心部には10-20階建てのビルも散見され、気候、建物の色の違いを除けば当時の大阪の風景とあまり違わない。
その夜は事務所の近くのホテルに部屋を取ってくれていた。
時間も12時を回っている為、しばしの雑談の後皆帰っていった。長旅の疲れもあり熟睡。
翌朝目が覚めてから、朝食のためNさんとロビーに下りていくと、ロビーは朝の出発客で混雑している。何か変である、しばらく考えた後、匂いが変だとわかった。
そばを妙齢の美女が通り過ぎるとやはり臭い。
後日わかったことだが、これは肉食とニンニクの匂いなのである。
その後我々も同じ匂いになった頃、気にならなくなった。
2年後結婚の為帰国した時に、妻になる人から後日談として聞いたところによると、私は臭かったそうだ。
朝食は会話をしなくて済むようなベーコンエッグとパンとコーヒーにする。
9時過ぎ事務所からTさんが来て、支払いとチェックアウトを手伝ってくれた。
事務所で駐在員事務所のベネズエラ人スタッフを紹介され、午後は市内にある現場を周り、現場のスタッフを紹介される。
緊張感から雲の上を歩くような感じがする。
現場スタッフは全員で30名程、全員とHow do you doに当たるスペイン語「ムーチョグスト」と言いながら握手をする。
明日からNさんはカテイア、私はピントサリーナスの現場に入り、据え付け指導をすることになった。
夕方事務所に帰り、下宿に連れて行ってもらう。
事務所から車で10分のサンベルナルデイーノ地区にある、スペイン人家族の経営する2食付きの下宿である。
周囲は静かな住宅地で、大部分がキンタと呼ばれる一戸建ての住宅地で、道路沿いには樹木も多く、垣根には大輪の赤い花が咲いている。
アパートも少なく、車の通りも少ない。
夜には小型の蛙が水辺も無いのに鳴いている。
ただ2軒隣にコカコーラの工場があり、朝早くからトラックに積み込むビンの音がする程度である。
下宿には先着のGさんの他にユダヤ人の老人が一人、カラカス中央大学の学生が一人そしてベネズエラ人の女性が一人住んでいる。
私の部屋は8畳くらいの広さでベッド、クローゼット、ソファと小型のテーブルがある。
バストイレは協同だが10畳くらいの広さがあり、シャワー、便器、洗面台と便器の横に見慣れないものがひとつ。
荷物を部屋に片付け夕食に行くと、食堂は20畳位の広い部屋に大型のテーブルと8脚の椅子がある。
スープから始まりメインデイッシュ、デザート、コーヒーと続くフルコース。
当時まだ貧しい日本の一般家庭や、私が住んでいた独身寮の食事と比べると雲泥の差だ。
ただし朝食はフランスパンの小型版とコーヒーとミルクの簡単なものである。
セドゥラ(身分証明書) 文頭へ戻る
当局がバイアスされているということでした
2日目の朝、事務所でカギを渡される。事務所のカギとなんとトイレのカギ。
下宿でも入り口のカギ2個と部屋のカギを渡された。入り口の2個のカギは両方を使わないとドアが開かない。
後日アパート住まいをする事になった時はドアの前に鉄格子があった。
訪問者は内ドアだけ開けて、確認し安全を確かめた後で鉄格子をあけるのである。
これが始まりで、最終的には20個くらいのカギをズボンのポケットに入れて歩くこととなる。
Gさんが説明してくれたところによると、とにかく泥棒が多いそうだ。
車もドアのカギ、ハンドルとアクセルをロックするもの、そして燃料カットするカギ、必要があればドアをこじ開けられた時のアラーム等等,平和な日本と比べる� ��格段の配慮が必要だ。
到着二日目、総務のランヘルに連れられて外国人登録局に行く。
日本で1年間有効のビザを取ってきたが、長期滞在者は「セドウラ」という身分証明書を常時携帯しなければならない。
これは別に外国人だけではなく、ベネズエラ人も全員持っている。
セドウラには写真、国籍、生年月日、名前、本人のサイン、番号が記入されており、事あるごとに提示しなければならない。
もっとも有効な本人証明の手段である。
番号はNさんは E1004241 私はE1004242 でこの番号は一生変わらない。
「Nさん、死に良いですね。 私は死に死にです」 暗記しやすいといって笑う。
日本では昨今、国民総背番号などといって問題 になっているが、外国では早くから定着している。
この身分証さえ持っていれば、パスポートは携帯しなくても良いのだ。
ただビザを更新する度にセドウラも更新せねばならない。
3ヶ月ビザなら簡単に取れるが、1年ビザの初取得はかなり難しい、ただ更新そのものは簡単で外人局に申し込むとすぐにくれる。
私は1年ビザを3回更新し、4回目は5年間の長期ビザをくれた。
事務所への帰路、ランヘルがレストランでセブンアップをご馳走してくれ、なにやら手帳に絵を書いて、説明を始めた。
太陽が昇って沈む動作を数回繰り返している。
しばらく何のことかわからなかったが、Nさんが「これは日数を言っているんだろう。
3日したらセドウラができると言ってるんじゃないか。」「どうやら、そのようですね。だけど良くわかりましたね。」
事務所に帰ってすぐ、手持ちのドルをベネズエラの通貨ボリバルに交換する為、Gさんが銀行に連れて行ってくれる。
1ドル360円 1ボリバル80円の固定相場だ。
当時の私の日本での給料は3万円くらいであり、また3ケ月の出張予定であった為、給料の他に月500ドルの出張手当が出る。
F工業では世界を3ランクに分けており、物価水準に応じて手当てが異なる。
500ドルはA地区と呼ばれアメリカと同じである。
今では南米の貧しい国になってしまったが、当時は外国からの借金も無く、鉄、アルミ、特に石油の豊富な地下資源のおかげで、ハイウエイが発達しアメリカ車が道路にあふれていた。
日本と同等� ��しくはそれ以上の経済的余裕がある国で、ベネズエラ人ワーカーの給料も最低月36,000円と日本より高いくらいであった。
従って、2,150ボリバルの出張手当は、2食付き月500ボリバルの下宿代を払っても、大分余裕がある。
銀行に着くと、入り口に拳銃と弾帯をした警備員がいる。中に入るとショットガンを持った警備員が1名、そして2階を見上げるとなにか見かけないものがある。
「Gさん あれは何ですか?」
「あれはトーチカだよ。中にマシンガンを持ったガードマンが居る。」
よく見ると、マシンガンの先が穴から見えている。
「この国では、ガードマンを雇うとき、その危険度に応じて拳銃、散弾銃,機関銃と分かれ値段もそれに応じて異なるんだ」 びっくりするなあ。< /b>
見慣れないものだから、やたら町中の銃器が気にかかる。
現金輸送車のガードマンは拳銃片手に現金袋をもう一方の手に持ち、更に相棒が拳銃を抜いて警戒しながら運んでいる。
ピントサリーナス 文頭へ戻る
最初に入った現場は、下宿から車で15分位の所にある、ピントサリーナス地区のマンション建築現場である。
これは労働銀行が低所得者向けに建築中の12階建てのビルだ。
朝9時頃現場に送ってもらい、一人で残される。
現地ワーカーも言葉の解らない、ニキビ面の青年の扱いに困惑している。
私も何をすべきなのか、作業指示するにも身振り手振りじゃ埒があかない。
仕方なく現場の工具置き場で、ドローとした精神状態でたたずむ。
やがて昼になる。
昼食はどうしたらいいんだろう。作業員たちはアレーパというトウモロコシパンに肉や魚を挟んだ弁当を食べている。
見か� �た作業員のマウリシオペレスが「アルムエルソ」(昼食)といって近づいてくる。
昼食の事だとわかったので、10ボリバル札(800円)を出すと、どこかに消える。
しばらくすると戻って、大きな紙袋を渡してくれた。
中を見ると直径20cm位の大きなフランスパンにハムが挟んだものが5個ある。
もちろんつりは無い。 やられた。
皆に食べなさいという事も出来ず、この気まずい場をとにかく離れ、日陰の涼しいところに移動して、仕方なく中身のハムだけを食べて、パンは捨てる。
午後は作業しているところを見て回って、訂正する場合は、やって見せ、又紙に絵を書いて指導することにする。
夜7時頃、あたりが暗くなって車が迎えに来た。
下宿でNさんと今日起こった� ��とを話し合う。御互いびっくりすることばかりの一日だった。
二日目も前日と変わらぬ状況が続く。
今日は無難なバナナでもと思い、昨日より小額の2ボリバルのコインをマウリシオペレスに渡し「カンブール(バナナ)」と言うとうなずいて消え、現
れた時には見た事も無いような大きなバナナの房を抱えてきた。 また やられた。
バナナは安いのだ。
ほかの作業員は私のほうをチラチラ見ながら、弁当を食べている。
仕方なく皆の前から消えて、一人さびしくバナナを2本食べ、残りは資材置き場に置いておく。
この日の午後、作業員の中に一人のキュラソー出身の黒人がいて英語を話すことが解った。
この時点ではまったく解らないスペイン語よりはまだ英語のほうが役に立 つので、この日以降彼を通訳として使い、仕事の役に立てることとした。
そして3日目の昼食、昼食を買って来て貰うのはもう止めにして、少し歩いたところにあるレストランに行ってみることにする。
立て看板に「クビエルトBS5」と書いてある。前日聞いたところによると定食5ボリバルと書いているのだそうだ。
作業員の日給15ボリバルに対して定食5ボリバルは高いと思うが、入ってみる。
テーブルに座ると給仕が来てメニューを置いてゆく。
見ても解らないので前夜覚えたスパゲテイを注文することにする。発音もそのままで良い。
給仕を呼んで
「スパゲテイ ポルファボール」 (スパゲテイをお願いします)。すると給仕は
「☆ △ × ☆ △ ×」 � � 何のことか解らない。 もう一度
「スパゲテイ ポルファボール」 「☆ △ × ☆ △ ×」 困った もう一度
「スパゲテイ ポルファボール」
「☆ △ × ☆ △ ×」 と言いながら給仕は奥に消えて行った。
そしてしばらく待つが何も出てこない。困った しかし注文が通ったのなら帰る訳にも行かず、待つこと40分やっとスパゲッテイが出てきた。
心配の為空腹を通り越して食べたくないが、ここで食べないとより一層事態が混乱すると思い急いで食べて、給仕を呼び「ラ クエンタ ポルファボール」(いくらですか?)と言うと、黙って計算書を差し出した。
そこには8ボリバルと書いていた。
定食が5ボリバルなのに前菜でしかないスパゲテイが 8ボリバルとは高すぎると思ったが、いかんせん 黙って8ボリバル払って逃げ出した。
その夜下宿で皆にこのことを話したところ、多分その日のメニューにはスパゲテイは無かったんだろう、だからレストランは説明しても理解してくれない客に、仕方なくスパゲテイを茹でたんだろうと言うことになった。
翌日からも昼食はこのレストランで取ることにする。
次の日にレストランに入ると昨日の給仕はひるんだ顔をしたが、テーブルに座るとメニューを持ってきた。
この日はすでに作戦を考えてきていたので、黙って前菜の部分の一行目とメインデイッシュの一番目の行を指差すと、給仕はニコッと頷いて去っていき、やがて前菜とメインデイッシュが来た。
成功 しかしこの方法は料理が出てくるまで� ��を食べるかわからないのが欠点だ。
このようにしてしばらくの間、日を追う毎に一行づつ下げて指差す方法で昼食の問題は解決した。
食べることばかり書いたが、この頃仕事は余り出来ないので記憶に無く、思い出すのはやたら昼食にトラブルが多かった記憶ばかりである。
カーニバル 文頭へ戻る
"滝"
カラカスに到着した2月は丁度カーニバルの時期であった。
町中が休暇の前で浮き足立っており、家々からはカーニバルの音楽が流れ、夜になると花火や爆竹の音が聞こえる。
カーニバル中は国中が休暇に入り我々下宿組は食事に行くのもままならない。
リオのカーニバルほど盛んでないが、メインストリートであるサバナグランデの路上は、もようし物や露天が並び車を通行止めにして歩行者天国となる。
カラカスにとどまらない人たちは大挙海に繰り出し、どこの浜辺も芋を洗うような混雑となる。
海水浴場はカラカスから空港方面に下った近辺にたくさんあるが、この時期混雑を避けようと思うなら、よほど遠くの浜辺へ行くか、又はシェラトン等の一流ホテルのプ� ��イベートビーチに有料で入る他ない。
海へは日帰り客も居るが大部分は泊り込みで来ており、土日を挟むと一週間から十日ほどになる休日をゆっくりとすごしている。
お金がかからないように、寝るのも浜辺、食べるものも持参したものを食べる。
もちろん物売りも浜辺にはたくさん居て、トウモロコシの粉で作ったエンパナーダや、生牡蠣も目の前であけてくれたものをレモン片手に食べられる。
道路沿いにはマンゴーをバケツ一杯2ボリバルほどで売っており、パリージャと呼ぶ焼肉も方々でやっている。
当時の貧しい日本では考えられないような、大量の肉を炭火で焼くさまはアメリカ映画で見るような豪華な光景である。
そして周囲からは24時間ノリのいいラテンミュ-ジックがかかり、人々は一日中踊り狂� ��ている。
ベネズエラ人 文頭へ戻る
ピントサリーナスの現場は一ヶ月ほどで何をしたのか解らないうちに終わり、次の現場のエルバージェに移った。
ピントサリーナスで気心が少し分かりかけた作業員を全員連れて行く。
言葉がわからなくても、長い間一緒に仕事をしていると、なんとなく理解しあうようになる。
作業員の中には黒人も居ればそうでないものも居る。
この国は1500年頃までは、インデイオが住んでいたが、スペイン人の征服によりスペイン人とインデイオとの混血、そして奴隷として連れてこられた黒人と、黒人との混血が生まれる。
インデイオはベネズエラ国内に数種族が住んでいたが、カラカスなどの開発地� �にはすでに純粋なインデイオは見当たらない。
現在でも過去の習慣を守りながら住んでいるのは、スーリア州のグアヒーロとアマゾン地帯の種族くらいである。
グアヒーロはスーリア州の首都であるマラカイボに行くとたくさん見受けるが、住んでいる所はマラカイボからかなり離れた未開発地帯である。
いまだに結婚には、山羊などが結納として使われ、衣類も彼ら独特のもので言葉もスペイン語ではない中国語の発音に似た言葉を話す。
面白いことに彼らの幼児には蒙古蕃があるとの事で、成人の顔立ちもアジア人である。
大部分のベネズエラ人はヨーロッパ各国人とインデイオや黒人との混血であり、昨今では中国人も増え次第にアジアとの混血も進んでいる。
肌の色も白、黒そして大部分がモレーノと� �ばれる濃い小麦色で、髪の色も黒、金髪、銀髪とすべてある。
身長は大部分の人が我々日本人と同じくらいでたまに白人一世の長身のものが居る。
男性も女性も総じて美形が多く、特に女性はミスユニバースやミスワールドに隣のコロンビア人と同じくらい選出されているほど美人が多い。
ラテン系は20歳になるまではびっくりするほど美人が多いが30歳を過ぎると極端に肥満になってゆく。
勤労意欲はまず無いと言ってよく、働く為に生きているのではない、遊ぶ金の為に働いているのである。
労働時間は1969年当時週48時間であったが、大部分の会社は土曜半ドンの44時間労働であった。
F工業も土曜半ドンであったが、1969年中頃には一日9時間労働、土日休日の週45時間労働へ変更した。
給� �の支払いは週給であり、毎金曜日が支払日である。
金曜日にはいつもランヘルが給料を封筒に入れて、事務所の社員が各現場を回って配っている。
後年物騒になると、総務のエルナンデスがかばんの中に拳銃のルガーを持って給料を配っていた。
一方作業員のほうは、金曜日に貰った給料が無くなるまで仕事に来ない者がいる。
そして現れた時は一文無しで、何かと理由をつけ金を借りに来る。無ければ貸してくれと言うのは当たり前で、貸してくれなくても余り構わない。
のべつ「プレスタメ デイネロ」(金貸して)と言っている。
最初の頃は上層部から金を貸すことを禁じられていたが、長く付き合いだすとそうもいかず、また長く付き合っていると気心も知れてきて、借りた金はきちんと返すようになる。
数年後100ボリバルほどを基金として、昼食代程度は理由無しで快く貸すようにした。
これは日本人には無いベネズエラ人の文化なんだ。
義理と人情は外国人には無いと考える日本人が多いが、義理は多分無い、しかし人情はどこの国の人間にも充分あるものだ。
持ち前の勝気で10年間過ごした私にも、10年の間に7-8名の古い付き合いのベネズエラ人社員が出来、彼らとの間には充分な信頼と人情を築く事が出来た。
ベネズエラ人で同じ会社に長く勤めるのはまれで、気が向かなかったり、少しでも給料の良い会社が有るとすぐに辞めてしまい、定年まで同じ会社で働くなんて絶対にない。
ある会合で私が在社10年というと、非難に近い眼差しが向けられた。
10年も勤めて飽� �ないのかとか、10年も勤めて引き抜かれなかったのかとか聞かれた。
F工業でも同様で、全ての職場でずいぶん社員が変わっていった。
我々としてはせっかく教育した社員が居なくなることは困るので、優秀な人材は常に気をつけて、他社に引き抜かれないように苦心していた。
えてして日本企業は、日本人スタッフだけで上層部を形成する傾向があり、これがベネズエラ人社員のやる気をなくす原因でもあった。
外国語学校 CVA ビルの屋上 後ろはランチョ
外国語学校 文頭へ戻る
カラカス到着後3ヶ月程経った頃、私とGさん、Nさんはロスメルセデスにあるヴェネ� �エラン アメリカン学院という外国語学校に通うことにする。
この学校はアメリカの国務省が経営する学校で、スペイン語と英語を教えている。
一日中2時間単位の授業があり、私たちは夜7時から9時までのコースを受けることにした。
スペイン語は1コースから12コースまでありそれぞれ45日間で、各コースの最終日に筆記と会話のテストがあり、合格者のみ次のコースに進級できるシステムだ。
最初に入った1コースは10名程度の受講生が居る。もちろんベネズエラ人は居なくてすべて外国人ばかりである。
教材はメキシコの姉妹校で使用している物を使い、内容は簡単な文章の徹底的な反復練習であり、文法はほとんど教えない。
スペイン語の解らない受講生に何語で授業をするかというと、もちろんス� ��イン語でスペイン語を教えるわけである。
ただし1コースから3コースまでは説明用に英語の註釈がついており、困った時にのみ先生が英語で説明してくれる。
私には役に立たない註釈である。
仕方なく下宿で「スペイン語4週間」という有名な本で予習をする。全てのスペイン語の動詞はひとつの時制で1人称、2人称、3人称に又それぞれが単数形、複数形の6種類に変化する。
時制も現在、過去、現在分詞、過去分詞、未来、可能法 などなど10数種類ある。
つまりひとつの動詞が80くらい変化するわけであり、英語のBE動詞の比ではない。
もちろん規則変化もあるが、不規則変化が80種類ほどあり、膨大な量の動詞を覚えなければならない、また定冠詞、不定冠詞も人称で変化し、名詞は男性形、女性形がある。
ただし発音は日本語と似ている為我々には楽だが、英語や中国語圏の人はかなり苦労する。
私はスペイン語を勉強してやっと英語のBE動詞が理解できた。
とにかく語学の勉強は、単語の暗記である。
文法なんて勉強するより先に、とにかく単語を一語でも多く覚えることが大事だと思う。
最初は単語を並べるだけでも、会話は成り立つ。
とは言うものの文法も大事で、節目節目に勉強する事で学習の効率はうんとアップするし、正確な文章を作成する為には絶対に必要となる。
暗記につぐ暗記、私は毎日10語づつ暗記することに決め、10個の単語を3日間暗記し、3日目にテストをして、少しでもスムースに言えない単語は更に又3日間続けた。
これを毎日歩く時も、ボーリングのゲーム 中も時間を惜しんで暗記することで、毎日8語づつくらい単語の量をふやしていく。
このようにして約一年かけて9コースまで終了することが出来た。
最初のコースは10名ほどでスタートしたが、コースが進むに連れて人数が減っていき、最後の8,9コースを受講する頃は2名となった。
その頃一緒に勉強した人はウイリアムさんという50歳台のイギリス人で、教師のカルメンと3人仲良く近くのコーヒーショップに行ったり、ビアホールに行ったりした。
残りのコースは強化コースの為、数年たった結婚後、妻は1コースから私は10コースから一緒に学校に通うこととなる。
月日が経つうちにスペイン語も上手になっていき、昼間は現場で現地スタッフと接し、日本語を話すのは下宿に帰って夕食のときGさ んやNさんと話すだけで、一日中スペイン語漬けの生活が続く。
語学が上達するコツは日本語を話さず、たくさんの単語を暗記し、酒場に行って女の子と話をすることだ。
キンタチリーメの下宿に入って2年が経過した頃、GさんとNさんが別の下宿に引っ越すことになり、私も一緒に行こうと誘われたが、これは一人になるチャンスと思い、断って一人キンタチリメーナに残る事にした。
これをきっかけに以後ほとんど日本語を話す機会が無くなる。
長期滞在の日本人の中にはほとんどスペイン語の話せない者も多数居る。
これは日本人同士が集まって暮らす弊害であり、スペイン語の習得に災いしているように見受けられる。
このようになるべく日本人と離れたところで暮らす習慣は結婚してからも続け、お� �げで妻のスペイン語の上達にも貢献することが出来た。
マラカイボ 文頭へ戻る
カラカスへ赴任して満一年が過ぎた頃、スーリア州のマラカイボに2ヶ月ほど出張することになった。
マラカイボの町のはずれにあるサンフランシスコ地区にビルが10棟建ち、そのビルにエレベータを20台据付ける事になったのだ。
一年が経って何とか現場の指揮が取れるようになったものの、対外的な交渉にはまだ不安があったため、カラカスで雇用された中田さんに同行してもらうことにする。
従業員の給料等人事総務関係の仕事は、スペイン人のセニョールガルシアにやってもらう。
作業員を全員カラカスから連れて行くと費用がかかるので、私と長く仕事をしているマリオ・ローペス、アステリオ・デイアス、ビクトル・マルテイーネスの3名を連れて行き、15名ほどをマラカイボで雇用することにした。
現地採用者の面接をするため、着工一� �月前に総務のランヘルとマラカイボへ行く。
マラカイボ空港を出たとたん灼熱の熱気が襲ってくる。
海抜1000mのカラカスは涼しいがここ海抜0mに近いマラカイボは熱帯である。
中心街から少し離れたホテルに宿を取り、ラジオと新聞に求人広告を依頼する。
夕刻シャワーを浴びる為冷水のコックを開くと、熱湯が出てきた。しばらく待っても冷たくならない、仕方なく熱いシャワーを浴び、ランヘルに
「セニョールランヘル このホテルのシャワーは壊れているよ。水が出ないで熱湯が出る。こんな暑い土地で暑い湯を出さなくても良いのに。」というと
「セニョール梅木 ここでは水道管が熱せられて暑い水が出るんです。丁度良い湯加減でしたでしょう。」といわれた。
なるほど。
翌日は早朝から面接希望者が大勢押しかけて来る。
ホテルの屋外レストランを借りて面接をする。面接といってもマラカイボにエレベータ工事経験者がいるはずもない。
マラカイボにはまだエレベータが数台しかないのだ。
字を読める者と寸法が解る者を選ぶこととして15名を選抜した。
全て終わりカラカスへ帰る途中、空港までの道の両側には赤茶けた砂漠が続き、メキシコ映画に出てくるようなサボテン林が果てしなく広がっている。
1ヵ月後中田さんと身の回りの品を車に積み、マラカイボへ向かった。
約8時間の行程で景色を眺めながらのドライブとなる。
マラカイボ到着後とりあえず面接の時泊まったホテルに宿をとり、翌日から作業開始する。
まず建築現場での打ち合わせ、海路マラカイボ港に到着した製品の通関、陸送の段取りなどを済ませた後、サンフランシスコ地区の労働銀行幹部に挨拶に行って、現場近くのアパートを事務所兼宿舎として借りることに成功した。
3LDKが月2000円という安い賃貸料である。
アパートの水道は蛇口をひねったら出てきたが、電気が無い。
廊下でブレーカを捜しているとアパートの住人がやってきて、電気を入れてくれるという。
見ていると分電盤のカギをこじ開け我々のアパートから来ている電線を大元のブレーカに引っ掛けた。
盗電である。よく見ると何本もの電線がすでに引っ掛けられている。
これはイカンと思い丁重に断って改めて電力会社に申し込むこととする。
ここ数日の外食に所帯持ちの中田さんは飽きたのか、アパート裏のサボテン林のそばでなんと米を炊き始めた。
付近の住民の子供たちが回りに群がり不思議そうに見ている。
突然訪れた東洋人にびっくりし更に又アパートの横で火を焚き始めたから、一見の価値はあると思われてもしかたがない。
やがて炊き上がった久しぶりの米のご飯とありあわせのおかずに、私も感激して食べた。
「中田さん、これはいい。明日から自炊しましょう。私が食事を作ります。」
「明日にでもプロパンガスを注文しよう。」
勇んで料理当番を引き受けたが、私に料理が出来るわけではない。
一方、中田さんも炊事をしたのはこれが最初で最後であった。
それから2ヶ月間私と中田さんは、連日ご飯とソーセージの食事をとることとなる。
私に出来たのはソーセージを炒める事くらいなのである。
全てが整った後、我々2名の日本人と、カラカスからの3名、そして現地採用組の15名で、工事は始まった。そして数日後ついに恐るべきことが持ち上がる。
地区の労働組合が世事に疎い日本人に難問題を持ってきたのである。
スーリア州は世界有数の大石油地帯であり、シェル、モービルなどの欧米企業が多くのベネズエラ人労働者を雇っている。
それに伴ない組織化された、かつ腐敗した労働組合が巾を利かせている。
作業開始後数日して建築現場に常駐している組合幹部が
[F工業の作業員は全員組合に入らなければならない。]と言いに来た。
「入る入らないは作業員自身が決めることではないのか。」と私が言うと
「ここでは違う。全ての労働者は我々の組合に入� �、組合費を収めなければならない。且つ又我々の代議員を一人雇用しなければならない決まりだ。」と言う。
更に追い討ちをかけるように賃上げを要求してきた。
カラカスでも組合騒動が起きかけたが、作業員と仲良くなることで、トラブルを避けてきた私はかたくなに拒みつづけていた。
がしかし、ついに建築総責任者のモラーレス氏が仲介に乗り出して来た。
「セニョール梅木、ここでは全ての企業が、組合を認めているのだから従うほかは無い」と説得された。
やむなく作業員の賃上げを認め、ペドロと言う代議員を雇用した。
賃上げは組合費を給料から天引きされることで作業員から不満が出るのを防ぐ為のものである。
多少の意趣返しの意味もあって、また野放しにすると何� �するか解らないので、翌日からこのペドロはわたしの側に置いておき一緒に製品の入った梱包の開梱や、資材の運搬をする。
この国では人を指揮する立場の人間は労働はせず、又作業服も着ない。
他の職場の組合代議員も仕事はせずにブラブラしている。
ペドロも当然労働させられるとは思っていない筈であった。
20名近い作業員を部下に持つ私が一作業員と同じように仕事をしている様子は、ペドロにしても又この建築現場の全員にとって不思議な光景であった。
ペドロは私の働いている姿を見ると、不満も出せず黙々と作業しているが、通りかかったほかの代議員からは相当冷やかされていた。
10日ほど立ったがペドロは何ら仕事の邪魔をするでも無く、心配していた新たな要求も出さない。
私とも打ち解けてよく話をするようになった頃、ようやく私も折れてペドロを開放する事にした。
給料は払うが仕事に来なくても良い、労使間のトラブルがあった時は来てもらうということだ。
基本的な決まり事さえ御互い守っていれば組合も役に立つ。
ある時仕事をせずに周囲に迷惑ばかりをかけていた作業員に困った時、ペドロが率先してその作業員の解雇に協力してくれた事もある。
現場には我々のほかに他の職種の人間も多数居て、その一人にエルナンデスと言う労働銀行の監督が居た。
スーリア大学出の若い技術者でF工業の担当をしており、若い私の面倒をよく見てくれる。
仕事が終わるとドラム缶で冷やしたビールをくれたり、サボテン林の中にあるキオスクに連れて� ��ってビールをご馳走してくれる。
このとき以来マラカイボに行く度に彼と会い、彼の友人たちと一緒に飲みに行ったり帰りには空港まで送ってもらったりする間柄となる。
サンフランスシコ地区 マラカイボ湖
マラクーチョ 文頭へ戻る
私たちの居るサンフランシスコ地区から車で30分ほどのところ、海とつながったマラカイボ湖の入り口にマラカイボの町がある。
この町は古くから栄えた港町で、古い建築物も多く、人々はカラカスのそれと異なる発音やイントネーションそして多少異なる文法のスペイン語を話す。
自分たちの事をマラクーチョと呼び、話す言葉もマラクーチョといい、方言のひとつだがカラカスから行った私には最初よく聞き取れなかった。
アパートの隣人にロサルバという妊娠中で大きなお腹を抱えた婦人が居る。
旦那さんは昼間働きながら夜はスーリア大学で薬学を勉強している、ベネズエラ人にしては珍しい勤勉な夫婦であった。
「セニョール梅木」「セニョール中田」と顔を合わすたびに話� �掛けてくれ、後々中田さんの家族と長い付き合いをするようになるのだが、ロサルバは後年病死してしまった。
そのロサルバが親切にマラクーチョを教えてくれた。
スーリア州の産業はマラカイボ湖に広がる石油採掘が主なもので、ここの石油がベネズエラの経済を支えている。
ある休日、中田さんと1時間くらい離れたところにある油田地帯を見物に行く。
油田地帯に近づくと道路も油臭くなり、家々の庭にはカマキリが餌をついばんでいるような石油くみ上げポンプが動いている。
そして湖の中には見渡す限り石油の掘削やぐらが林立しており、やぐらの上からは石油随伴ガスを燃やす炎が黒い煙を上げて燃えており壮大な眺めである。
油田見物の帰りに湖で泳ぐ。
岸辺に原油が堆積しており水の中に入れたものではないので、桟橋で沖に出て泳がなければならない。
水から上がると体中に点々と油のしみがついていた。
湖では魚も取れ、� �0-30cmの魚を油で揚げた物を道路脇で売っている。
私たちもソーセージに飽きると時々買っておかずにしていたが、このとき以来魚は食べないことにした。
もちろんマラカイボ滞在中ずっと自炊していたわけではない。
意外なことにマラカイボにはたくさんの中華料理屋があり、それもカラカスにあるような高級料理屋と異なり、駅前の飯屋と言うような規模の店を家族で営んでいる。
サンフランシスコ地区にも一軒あり、ここにアントニオと言う中国人が働いていた。
店に行くといつも二言三言しゃべりあい、その後もマラカイボに行く毎に、アントニオのいる店に顔を出すようになった。
中国人は意外と我々日本人には優しく、戦争中の悪い話を知っている私は少々控えて話� �していたが、先方は意外にも同じアジア人ということで親近感を持ってくれ、中国人は大人であるとつくづくと実感した。
マラカイボ滞在中にボリバリアーノと言う南米5ヶ国のオリンピックがあった。
パナマ、ベネズエラ、コロンビア、ペルー、ボリビアの5カ国は、スペイン人のシモンボリバルがスペイン本国との独立戦争の結果グランコロンビアと言う国が出来、その後現在の5カ国になったものである。
ボリビアの国名もベネズエラの通貨ボリバルもこの名前に由来したものである。
シモンボリバルが共通の建国の英雄という事でこれら5カ国は各方面でつながりがあり、ボリバリアーノオリンピックもそのひとつである。
我々が工事中のビル郡もその半数を選手村として活� ��すべく、工期があってないようなこの国では珍しく工期が定められた。
期間中、10棟のビル周辺はフェンスが築かれ、外部からの出入りは国家警備隊が発行する証明書を持ったもの以外は制限される物々しさであるが、建築現場は半数が未完成である。
建築工事は停止させられたが、エレベータ工事だけは継続できるように組合のペドロや組合幹部が協力してくれ、一緒に国家警備隊の将官のところに頼みに行ってくれたおかげで作業は続行可能となった。
選手村となった、完成したばかりのアパートに簡易ベットが運び込まれ、1階の開放空間にはレストランが設営される。
宿泊する選手役員は数百人に及び、その中に二人の日本人の若い男女がいた。
マラカイボで始めて出会う日本人 であり、御互いに日本人か、中国人かわからずにいたが、ある日思い切って声を掛けてみると日本人であることが解った。
日本の海外協力機関からパナマに派遣された体操の先生である。
彼らも日本人が珍しく、早速われらの宿舎で食事をしたり、ボーリングに行ったりと久しぶりににぎやかな楽しいひと時を過ごした。
もう一杯のTさん
1969年に赴任した時は、ベネズエラ駐在員事務所にはTさんが所長としておられた。
どちらか忘れたが、早稲田だか慶応出身の良家の坊ちゃんと言う感じの上品な人で、単身赴任されていた。
数年前にお亡くなりになったが、津田塾出身の英明な奥様は健在である。
このT所長に私は大きく感化されることとなる。
年はかなり違うが良き話し相手であり、良き飲み友達であった。
奥様と二人で事業を始めたが、1968年事業を奥様にゆだねられ、F工業に海外要員として入社して私より数ヶ月前にベネズエラに赴任した。
Tさんは学究肌の人で英語とスペイン語のガイドの資格をもっている。
赴任したての20代前半の私はまだ生意気盛りで、学生時代同様上の人にたてつくと言う性格は直っていなかった。
Tさんに対しても事毎に反抗心をあらわにしており,子供同然の年の違う私にてこずっていたのが私にも良くわかった。
話が合うようになったのは、私に子供が出来少し落ち着いてからである。
私たち夫婦は単身赴任のTさんを気遣ってよく食事に招待したが、学究肌のTさんは実は大酒飲みなのである。
一晩にボトル一本の生活を続けておられたが、亡くなった時も肝臓は丈夫なままであったと奥さんから聞いた。
食事の量は少ないが、かなりのグルメで料理も上手く、私が独身の頃はよく手料理を作ってくれた。
学徒出陣の海軍少尉であったTさんは、海軍仕込みのカレーが得意だったのだ。
そのTさんは私の家に来ると、単身生活の寂しさからかなかなか腰が上がらず、海軍時代にいた南方の高射砲陣地指揮官時代の事を延々と話す。
Tさ� �が海軍少尉になった頃には、日本海軍には乗る船が無かったのである。そして
「梅木君、もうそろそろおいとましよう」
「まだいいじゃないですか」
「そうかね、それじゃもう一杯頂こう」これが5,6回は続くのが常である。
いつとはなしに、私たち夫婦は「もう一杯のTさん」と命名した。
しかし、Tさんは精錬潔白な人で、酒は飲むが女性には目もくれず、ひたすら日本にいる奥さん一筋の人であった。
かくして自分には甘いが上司には完全を求める私の尊敬の念を得たのである。
語学が得意なTさんは休日には奥様とニューヨークで会われるなど、当時の私にしたらえらくハイソサエテイーな感じがしたものである。
私がF工業を退職してしばらくしてTさんも定年退職されるが、仕事で大阪に行った時に訪ねていくと大変喜んでくれ、その夜は久しぶりに飲み明かすこととなった。
そのTさんは今天国におられる。
私は入院中、Tさんはじめ仲の良かっ� ��無くなった人達を思い浮かべ、死んだら皆とまた会って酒を飲めると考え、死の恐怖から逃れるひとつの手段としていた。
1969年カラカス2へ ホームへ文頭へ戻る
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